はじめまして!平野 忍です。
・生年月日 1974年4月27日生(牡牛座)
・居住地 岩手県花巻市
・家族 妻、長男、長女、次男、父、母、妹、猫2匹
・趣味 釣り、料理、ラーメン食べ歩き
・好きな食べ物 ラーメン カレーライス
・苦手な食べ物 ホヤ イカの煮物(刺身はOK)
・前職 公務員(消防士)
「公務員を退職してフリーランスの道を進む男の日常|日々ツナガル」にお越しいただきありがとうございます。
僕は、公務員(消防士)として働いておりましたが、2016年に退職し、2022年4月からフリーランスとしての活動を始めました。
現在の主な活動は
◆ ホームページの作成
◆ ブログの構築
◆ ホームページやブログの保守管理
◆ ホームページやブログの運営サポート
◆ ワードプレスのお悩み解決
です。
さて、このブログにお越しになった方の中には、
「なぜ安定した公務員の生活を捨て、フリーランスの道へ進んだのか?」
ということに興味を持たれた方もおられるでしょう。
ここからは、僕が公務員を退職するまでの経緯と、公務員を退職してからフリーランスとして活動を始めるまでのストーリーをお話しします。
僕が公務員を退職したワケ
まず最初に、たぶん皆さんが一番気になっているだろうと思われる「なぜ公務員を退職したのか?」についてお話していこうと思います。
公務員を退職しようと思った一番大きな理由は、子供の病気治療と仕事のバランスを取ることが難しくなってきたからです。
でも、これは理由の一つでしかなく、他にもいくつかの理由が積み重なって公務員を退職するという決断に達したんです。
その辺について、順を追ってお話ししていきます。
なりゆきまかせの就職
話は高校時代までにさかのぼります。
高校時代、僕は大学進学を目指していました。
「いつか自分の力で何か仕事をしたい。そのためにも何か自分のやりたいことを見つけなければ…大学は自分が何をやりたいのかを見つける時間にしよう!」
そんな理由からです。
でも、努力不足だったんでしょうね。
センター試験本番で、模試でも見たこともないような散々な結果が…
現役での合格はかなり困難な状態です。
加えて、家庭の事情から大学進学を断念しなければならなくなりました。
そこから急遽、就職先を探すことに…
でも、大学受験が失敗してからの就職先探しです。そんなに簡単に就職先が見つかるわけがありません。
就職先探しに四苦八苦していた時、
「地元の消防本部で募集があるので受けてみたら?」
という話がありました。
もう自分の希望どうこう言える状態ではなかった僕は、紹介された消防本部を受験することに。
すると、運良く合格することができました。
本当になりゆきまかせの就職でしたが、公務員になることができ家族は大喜び!
でも、理想としていた人生プランとは全く違うなりゆきまかせの就職…
このことが、公務員を退職するに至った原因の1つとなりました。
自分の力で仕事をしたいという想いを思い出させた3つのできごと
無事に就職がきまり公務員としての生活がスタートしましたが、徐々に自分の気持ちの中に理想の人生と現実のギャップが生じ始めます。
そんなとき、自分の力で仕事をしたいという想いを思い出させた3つのできごとが起こりました。
ひとつ目が、地元住民参加型のテレビドラマ制作です。
制作期間中は、撮影もミーティングもすべてが新鮮で刺激的でした。
たくさんの地元住民の方々と、テレビ局のスタッフと力を合わせてひとつの作品を作り上げる工程が本当に楽しくて、撮影日やミーティングが楽しみで仕方ありませんでした。
自分たちが力を合わせて作った作品が実際にテレビで放送されたときには、言葉にならないくらいメチャクチャ感動したことは今でも忘れません。
撮影期間が終わり以前のような日常に戻ると、僕の心の中には何か物足りなさというか、もう一度あの刺激的な日々を送りたいという思いがありました。
そんな時、2つめの出来事が起こります。
ふらさときゃらばんというミュージカル劇団の公演を僕の地元で行うので、その実行委員会にならないかという話です。
当然、僕は二つ返事で手を挙げたのですが、最初の打ち合わせでチョット後悔をすることに…
というのも、ふらさときゃらばんの公演にかかる費用は1000万円!
つまり、チケットを1000万円分売上げなければならないのです。
しかも、なぜか僕が、その実行委員会の副委員長になってしまいました。
「花巻の田舎で、ミュージカルのチケットが1000万円分も売れるのか?」
頭の中は一瞬で不安に覆いつくされました。
でも、みんなでやると決めた以上やるしかない!そう気持ちを切り替え、連日、みんなであれやこれやと知恵を出し合い準備を進めていきました。
でも、なかなか目標金額に達せず、ついに公演当日を迎えます。
公演がスタートした直後、受付で当日券の売上金額とそれまでの前売り券の売上金額を合計すると…
1000万円突破!
うれしすぎて公演中にもかかわらず思わず声を上げそうになりました!
スタッフみんなでハイタッチをしたり抱き合ったり、ものすごい達成感と安堵感でした。
公演終了後、スタッフみんなで打ち上げをしましたが、正直、まったく記憶がありません。
家族の話だと、いつの間にか家に帰ってきていて、庭で飼い犬に抱きつきながら
「みんなに感謝しかない!」
と何度も言いながら大声で泣いていたそうです(犬は迷惑だったでしょうね…)。
ふるさときゃらんオフィシャルサイト:https://www.furucara.com/
そして3つめのできごと、それは卓球の指導者として過ごした約20年の日々です。
僕は、高校在学中から卓球の指導者として活動を始めました。
その間、たくさんの選手と出会い、たくさんの思い出を作ってきました。
僕は、選手と過ごす時間がとても好きでした。
みんな自分の夢に向かって精一杯努力しています。
そんな選手の夢をかなえるために、そして自分自身の「日本一の指導者になる」という夢のため、日々勉強を重ねました。
結果として、自分が日本一の指導者になれたかどうかは分かりません。
ただ、選手と一緒に目標を設定して、その目標に向けて努力し続けた日々は毎日が充実していました。
選手たちの努力、そして保護者のみなさんや学校関係者の協力のおかげで、たくさんの目標を達成してきました。
目標を達成した瞬間のあの感動は、何度味わっても格別なものでした。
指導者を20年も続けてこられたのは、
「あの感動をまた味わいたい!」
そういう想いが原動力となっていたのかもしれません。
これら3つのできごとは、ゼロから何かを生み出しそれを成功に結び付けた貴重な経験でした。
そしてそれは、高校時代に抱いていた
「いつか自分の力で何か仕事をしてみたい。」
という想いを思い出させてくれた大きなきっかけとなりました。
子供たちの病気と仕事との板挟み…そして退職へ
僕には3人の子供がいます。
そのうちの長男と長女は、生まれながら腎臓の機能が普通の人の半分もありません。
医師からは
「20歳までには腎臓移植か透析が必要になってくるでしょう。」
と言われていました。
「20歳までならまだ時間はある。それまでに何か良い治療方法が見つかるかもしれない。」
その時は、そう思っていましたが、それは甘い期待でしかありませんでした。
結局、長男は5歳の時に急激に症状が悪化し、半年間の入院治療を経て人工透析となりました。
日々の透析治療と食事制限、飲水制限は5歳の子供には過酷でした。
この状況を1日も早く改善するには「腎臓移植しかない!」結論はそれしかありません。
でも、娘も将来的には腎臓移植が必要です。
その当時、移植した腎臓は平均で10年前後しか機能しないといわれていました。
子供たちの長い人生のことを考えると、僕ら夫婦の腎臓を今の段階で提供してしまうのは言い方は悪いですがバックアップがなくなってしまいます。
悩みに悩んで出した結論は「1年間人工透析を続けながら臓器提供を待って、それでも臓器提供がない場合は、僕か妻かのどちらかの腎臓を移植しよう。」ということでした。
とは言え、皆さんご存じのとおり、日本での臓器移植は提供者が少なくハードルが高いです。
正直、難しいだろうなと思っていました。
ところが、移植の希望を出してから間もなく1年になろうかという日に、臓器提供があるとの連絡を受け、東京の病院で腎臓移植を行うことができました。
この腎臓移植の時に僕ら家族は、今まで治療をしてきた複数の地方の病院と、手術をした東京の病院の医療レベルのあまりの差にショックを受けます。
詳しく説明することは割愛しますが、とにかく全ての医療レベルが段違いなのです。
「最初からここに来ていれば、長男にあんな辛い思いをさせることはなかったのに…」
そう思いました。
そんな経験から、娘は早い段階で長男が移植手術を受けた病院で治療し、病状が悪化する前に腎臓移植を行いました。
ふたりとも腎臓移植ができたので、しばらくは安泰だろうと思っていましたが、そうは問屋が卸してくれません。
長男の経過は良好でしたが、娘は何度も何度も体調を崩しました。
その頃には、僕も仕事上でそれなりに責任のある立場になっていました。
通院などで仕事を休みたくても、なかなか休むことができません。
僕は仕事と娘の病気治療との板挟みに悩み続けていました。
心の奥底には
「仕事を辞めて東京の病院で治療をすれば良くなるのでは…」
という思いが消えません。
そんな毎日を過ごしているうちに、僕自身も体調を崩すようになりました。
仕事の責任、娘の病気、自分のやりたい事と現実のギャップ…
いつしか、
「もう退職するしかない!」
そう思うようになりました。
今になってみれば、もっともっと違う選択肢があったと思います。
ですが、当時の僕は「もうそれしか結論はない!」そう思い込んでいました。
ネットビジネスに挑戦→挫折の日々
実は僕、公務員を退職する前からネットビジネスに挑戦していました。
というのも、子供たちの病気治療には、公的補助があるとは言えやはりお金がかかります。
加えて、自分で何か仕事をしたいというかつてからの想いと、子供たちに少しでも財産や病気でもできる仕事を残してあげたいという想いが重なっての挑戦でした。
そのころの僕は、物販アフィリエイトに挑戦していました。
教材を購入し挑戦を始めたところ、すぐに成果が現れます。
当時ブームになりはじめた加熱式たばこのアイコスを取り上げたところ、1万円以上もするアイコスが毎日ポンポン売れるのです。
このことも公務員を退職する理由となりました。
「アフィリエイトって簡単じゃん!」
その時の僕は、そう思っていました。
でも、これってたまたま運が良かっただけだったんですよね。
ブームの影響で店頭で品薄になっている商品を扱ったことで、多くの方に購入してもらえただけなのです。
そのことに気づかなかった僕は、その後どん底の日々を送ります。
ブームの終焉とともに、アイコスの売り上げはどんどん下がっていきました。
でも「アフィリエイトって簡単じゃん!」って思っている僕は、次から次と話題の商品や人気のある商品を記事にしていきます。
でも、売り上げは一向に上がりません。
悩み続ける日々が続くなか、娘に腎臓病とは違う新たな病気が発病しました。
ある時期から突然に意識を失ったり、突然に体中の力を失いバッタリと倒れるようになったのです。
その症状は、徐々に酷くなっていきました。
普段から通院している病院で検査を続けましたが原因も病名も分からず、結局、腎臓移植をした東京の病院で検査をしてもらうことに…
検査の結果、病名が判明しました。
病名は「ナルコレプシー」
昔は「眠り病」と言われた病気で、食事中や会話の最中など普通なら絶対に眠らないようなシチュエーションの時でも一瞬で眠ってしまったり、突如として体中の力が抜ける「脱力発作」が起こる病気です。
「なんだ、眠ってしまうだけなら問題ないでしょ」
なんて思う方もいるかもしれません。
でも、この病気の怖いところは、それが自分の意志とは関係なくいつどこで起こるか分からないことです。
実際に道路で歩いている最中に脱力発作が起って倒れたこともありますし、食事中に眠りこけてしまったこともあります。
普通の生活を送ることさえも困難な状況でした。
病名が判明し治療をスタートさせましたが、しばらくすると
「さらなる治療をするには、より専門の先生に診てもらった方が良い。」
との主治医からの進言もあり、ナルコレプシーの権威の先生がいる秋田県の病院に転院することを決意。
秋田県の病院に通院するため岩手県に戻ることにしました。
その後は、岩手県と秋田県を往復する生活。
そんな中、治療生活のストレスが限界に達してしまったのでしょう…
ついに娘の心が壊れてしまいました。
娘は学校にも行けなくなり、その後、薬の影響で糖尿病も発症。
その結果、娘は自宅での生活を余儀なくされました。
一度は物販アフィリエイトに挫折した僕ですが「娘を看病しながら収入を得るには、やはりネットで収入を得るしかない!」という想いを強くしました。
今度は失敗できないと思った僕は、誰かに師事しアフィリエイトを学ぶことが最善と思い、とあるメンターに師事しました。
結論から言うと、この挑戦も失敗に終わりました。
その後ライターにも挑戦しましたが、仕事量の割にはなかなか収入が膨らまずこれも断念。
何度も失敗をかさねた僕は、すっかり自信を失いネットビジネスは自分には無理だと思うようになりました。
そんなこんなで結局、就職先を探すことにしましたがこれもうまくいきません。
就職がきまりかけても、娘の病気治療と仕事の板挟みが発生することになり断念するしかなかったのです。
もう本当にどうして良いか分からなくなっていました。
人生の転換点→佐々木優斗さんとの出会いとHOMEへの参加
さんざん悩みましたが、
「娘の治療をしながら収入を得るには、やはり自宅で仕事をするしかない!」
という結論に行きつきました。
今度こそ失敗はできません!
そこで過去の失敗から2つ作戦を立てました。
作戦その1 誰かに師事しアフィリエイトを学ぶ
作戦その2 師事するメンターは、ネットだけのやり取りだけではなく、できることならリアルで会える人を選ぶ
です。
作戦その1の理由は説明の必要はないでしょう。
作戦その2の理由は、以前に師事したメンターはネットを通じた音声だけのやり取りだけだったので、ニュアンスやイメージが共有できなかったり言葉の受け答えに齟齬が発生しストレスを感じることが何度かありました。
それを防ぐためにも、岩手県内でアフィリエイトを教えているメンターを探したところ運命の人に出会えました。
佐々木優斗さんです。
優斗さんの教えは、自分がそれまで学んできた教材やメンターとは全く違いました。
自分の悩みや問題点が、絡んだ糸がほどけるようにスルスル解決していきます。
優斗さんは、すっかり自信を無くしてしまっていた僕を優しく支えてくれました。
そして何より、もしもの時は直接お会いすることできるという安心感が大きかったです(実際はコロナ禍でなかなか会えませんでしたが…)
そんな中、優斗さんから、優斗さんが主宰するビジネスコミュニティ「HOME」への参加のお誘いを受けました。
最初は参加するかどうか悩んでいたんですが、過去の経験で1人でアフィリエイトに挑戦する心細さを感じていた僕は、同じ志をもつ仲間と共に歩むのが最良の道だと思い参加を決意しました。
この選択は大正解でした。
HOMEでは、ブログビジネスを通して様々なことを学ぶことができました。
HOMEでの学びの中に「好きな事こそが最強の武器になる!」と「ビジネスは長距離走。好きな事でないと長く続けられない。」というのがあります。
僕は人生で初めて「好きな事+ビジネス」を考えました。
そこで出た結論が「ホームページ制作」や「ブログの構築」だったのです。
この瞬間、高校時代からの「自分の力で何か仕事をしたい」という想いと、「娘の看病をしながら自宅で収入を得る」という2つの想いが1本の線につながりました。
自分が生き生きと生活している姿が初めてイメージできたのです。
優斗さんに「ホームページ制作」や「ブログの構築」を自分のビジネスにしたいという想いを伝えたところ、力強く背中を押してくださいました。
僕はHOMEに参加して2年目となります(2022年現在)。
心強い仲間たちと歩む今が、本当に楽しいです!
そして、佐々木優斗さんとの出会い、HOMEへの参加が僕の人生の転換点だと、今も、この先も間違いなく言い続けることでしょう!
家族と自分が本当に幸せと言える未来のために
ここまで僕が公務員を退職してから現在までのストーリーをお話ししました。
自分自身、ここまで長文になるとは思ってもみませんでした(;^_^A
綾小路きみまろさん(←知ってるかな?)の漫談の一節に、
「人生は良いことも悪いことも半分半分」
というのがあります。
それが本当だとすると、娘のこれからの人生は間違いなく素晴らしいものになるハズ!
僕ら家族にも最高に幸せな未来が待っているでしょう。
とは言えそんな幸せ、待っているだけでは手に入るはずもありません!
僕は2022年4月に「ホームページ制作」や「ブログの構築」をベースにフリーランスとして活動することを決意しました。
佐々木優斗さんとHOMEの仲間の支えのなかで見つけた僕の進む道。
この道を見つけるまで長い時間がかかってしまいました。
(牡牛座だけに)歩みはゆっくりでも、一歩一歩頑張って歩き続けます。
家族と自分が本当に幸せと言える未来のために!
皆さんにも、僕がこれから歩むストーリーを応援していただけたら嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。